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  • 渋さ知らズのマネージャ-、山田一郎さん

    shibusa2.jpg 今までフジロックとの接点がなかった渋さ知らズがフジに出るきっかけを作ったのが山田一郎さん(仮名)。彼は昼はサラリーマンをしながら渋さ知らズのマネージャーみたいなことをやっている。初期(2000年ころ)のorgのメンバーでもあって我々の先輩にあたる。会社にバレたらいけないとのことで、仮名でこのような登場になった。
     渋さ知らズのフジロック出場の経緯、ミュージャン・パフォーマーで40人以上を仕切る苦労などを聞いた。「どうしたらフジロックに出られるの?」というヒントがあるので興味のある人は一読を。
     なお、渋さ知らズオーケストラは1月10日に渋谷のO-EASTでライヴをやりますので、是非足を運んでいただきたい。リーダーの不破さんとヴァイオリンの勝井さんのインタビューもありますので、こちらも合わせて読んで頂きたい。


    【渋さ知らズとの出会い】

     2000年の夏に、たまたま横浜の寿町フリーコンサートに行ったんですね。前から凄いらしいって名前は聞いておったんですけど、初めて観てビックリしてひっくり返っちゃったんですね。こういうのに関わってみたいなと思って、2001年に僕の知り合いがやっている渋谷のクラブで渋さ知らズをやってもらったんですね。それを観に来られていた花房さんがやはりびっくらこいたみたいで、それからフジロックに出るっていうふうに話が繋がっていったっていう感じです。
     バンドにいきなりアプローチして「お前誰?」みたいなことはあった思いますけど、それは最初のプレゼンの仕方だと思うんですよ。こういう場所でやりたいと思ってますという企画書とか、図面であるとか、僕はこういうことを考えている、こういうことをしていきたいとか、明確なヴィジョンというものをきちんと提案しました。実際、2001年の1月にやるまでに半年ぐらい準備しているんですけども。その間、リーダーの不破さんとやり取りしているわけで、その中で少しずつ「こいつにある程度任せて、渋さ知らズのライヴを仕切らせても大丈夫じゃないか」というふうになっていったのではないかと思います。
     現在は、ごま油の会社で品質管理をしているんですが、もともと僕はスペースシャワーにいた人間で、音楽の現場を知ってますから、ライヴをひとつやるために何をすればいいのかは分かっていたつもりなんで、そのへんが助かったかなぁと。


    shibusa1.jpg【どうやったらフジロックに出られる?】

     こういうことを言うと格好いいんですけど、一番最初に、渋谷のクラブでやるときには、これをきっかけにしてフジロックに出て――嘘じゃなくて、本当ですけど――グラストンバリーに出れればええかなぁというふうに考えてました。そこまで出るというのは、当然、僕の力でどうにもならない部分ってあるわけなんですけど、僕がこういうことをやっていて恵まれたこともあるし、でも一番は渋さ知らズが格好いいってことなんですよね。だから、僕は自信を持っていろんなところで宣伝できたし、アピール出来たわけです。
     フジロックに出る手段って何でもあると思うんですよね。日高さんを捕まえるとかして、とにかく見せる。誘拐してでも見せるとかね。コネとかそういうことじゃなくて。とにかく、出会いの場っていうものを作る。自分たちが会いに行くなり、誰かに仲立ちしてもらうとか、聴いてもらう、観てもらうを、まずしなくちゃね。
     日高さんにビデオは送ったかな。それに対して「どうでしたか?」とかは聞かなかったです。あれはあくまでも単なるプレゼン資料ですからね。それで判断してくれとは僕も思いませんし。やはり根本は、ライブを観てもらうとかいったストレートな表現方法がいいのではないかと。スマッシュの誰かがライヴに観に来ればすごいことになるんじゃないかと気配は感じていました。


    【フジロックに出るまで】

     2001年の2月に、フジロック出演の電話がかかってきましたね。やっぱり電話がかかってきたなという感じなんで「是非お願いします」って。
     早い段階からスケジュール調整は始まります。でかいことやるためには、半年時間が必要だと思うんですよ。その時点から5ヶ月くらいあるわけですから、段取り的にはそんなにしんどくないですからね。もともとある程度やってきましたから。あのときはステージに立ったのは、40人くらいじゃないですか。ほとんどが日帰りでした。複雑なパズルを解いているような感じで、どの車に誰を乗せて、どうのこうの効率よく、交通費がかかんないように調整します。
     あのときは、ROVOが終わったあとに、お客さんがいっぺんどーっと引いたんですよ。渋さのセッティングを始めたときに前に5人くらいしかいないんですよ。「いかんのー、いくら何でもこれはないだろう、どっか食べに行ってるにしろ、休みに行ってるにしろ、もうちょっといるだろうな」と思ってたんですけど、始まる直前まで全然いなかったのね。もう裏で切腹しようかと思った。
     定刻くらいになると、どーっと人が来る。ホワイトステージの方から走ってくる人もいたりして感動しましたね。ライヴに関してはいいに決まってますからね。僕の役目っていうのは、お客さんにまず来てもらう。そこから先は心配していないです。反響はネットのいろんなところでチェックしました。その年の最高という方もいらっしゃいましたし、書かない人でも、そういう人は結構おったと思いました。通常のライヴでもお客さんが増えましたね。特に普段ジャズ聴かない若い人たちが。


    【2002年グリーンステージ出演】

     次の年は2月か3月かな。グリーンステージというお話で、そのとき土曜の朝一発目で決まってました。土曜日って中日(なかび)でしょ?金曜の夜にどっか泊まらないといかんわけですよ。金曜日の夜だけメンバー、スタッフを合わせて70人ぐらいを泊めてくれる宿を3月には探していたんですよ。ヤバイじゃないですか。モタモタしていたら。中日1日だけ、70人とかっていうのを宿もイヤがりますからね。早めに動こうと。
     越後湯沢の音羽屋っていう旅館を借り切って大宴会でした。あのとき最後に寝た人が6時くらいでしょ、起きるのが7時。それで全員起きてきたんで、僕はもうゾッとしましたけどね。僕はそのまま一睡もせず。みんなお酒飲むでしょ。ロビーとか会議室とかで。瓶とかめちゃくちゃ転がってますからね。それを掃除したり。そういうときは飲まないです。そういうときに飲んだら大変なことになるんで。
     2001年のときよりも人数違いますから確実にインパクトありますね。特に土曜日の朝イチっていうのは、ほっといてもグリーンステージにお客さんがいるっていうのは知ってますからね。すごくいい時間を頂けたなって。


    【朝霧、そして2003年の構想】

     2002年の朝霧の出演は僕個人としてはイヤでしたね。不破さんと遊びに行こうかなぁとノンビリ考えているところに電話がかかってきてクソーと思いましたね。フジロックも朝霧も好きなのに遊びに行けない。そのときに、2003年の渋さ知らズステージについて不破さんと日高さんで話し合ったんですね。
     最初の構想は、たまにやる天幕渋さっていうのを新しく出来るジャズ&ワールドステージのところに3日間置きっぱなしにして、通常のステージが終わった後に天幕渋さでやればっていうところから始まりました。実際見に行くと、スペース狭くなってしまうし、音の問題、機材の問題とかも生じてダメになって、その代案として3日目を不破さんがプロデュースするのはどうでしょう、という話になりました。
     出演者については、不破さんが当日、コンセプトを教えてくれたんですけど「日本語で勝負しながらも、海外でも絶対に勝負できるような人たち」ってボソっと言ってくれて感動しましたね。


    【グラストンバリー】

     2002年の年明けぐらいかな、スマッシュからグラストンバリー出ないかという話がきました。もともと渋さはヨーロッパツアーが決まっていたんですが、イギリスには行くつもりはなかったんです。でも、日程的にちょうど合うんで行きますか?ってなりました。出たのは初日の朝にメインステージ、その日の夜にジャズステージですね。フジで言うと、フィールド・オブ・ヘヴンか今年のオレンジコートみたいな位置付けです。ジャズステージの方は盛り上がったみたいですね。基本的に向こうの人はメインステージの朝イチは起きてこないですから。しかも初日で。そっちはガラガラみたいでした。
     海外ツアーは行くまでの段取りはパスポートのナンバー控えたりとか、ある程度お手伝いします。渋さ海外ツアー部がいますんで。副島輝人さんっていうジャズ評論家の方がやってくれているんです。僕一人じゃ出来ないですからね。渋さ知らズは、それぞれのプロフェッショナルがいまして、スタッフの人もそれぞれ能力ある人が集まっているんです。安部田さんっていう舞台監督の方が仕切る建て込み部隊とか美術部隊とかいろいろいるんですよ。不破さんがどうしたいかというのを具体的な形にしていきます。


    【2003年のステージ】

     転換時間が長かったことですが、表記の問題から始まっているわけです。皆さんは「大豆鼓ファーム~渋さ知らズ」とあるんで、大豆鼓ファームが終わったら、その流れですぐ渋さが始まると思ってしまったに違いないと思うんですよ。皆さんにきちんとお伝えすれば良かったんですけど、しなかった。僕自身が自己完結してしまったんです。渋さ知らズは大豆鼓ファームが終わった時点からマイクがなくても表現が始まりますからね。それが渋さ知らズなんだ、と僕は通じると思ったんですよ。
     転換っていうのはすぐできることではないんですね。どうしても転換時間が必要で、転換作業と関係ないところで、表現としてやれることを渋さ知らズはやってますから。それをキチンと伝えられなかったんで、それは本当に申し訳ないことでした。最終日の夜っていうのもありますね。帰りのバスがある人もいるし。難しいですよね。やる時間によって変わるわけですから。ただ、渋さなりの方法論があるんで、そういうのをできるだけ時間を気にせず、最後の最後までゆっくり楽しんでほしいですね。


    【今後フジでやりたいこと】

     何とか金曜日の夜のグリーンステージのトリなれればなぁ、っていうのがありますけどね。日曜日の大トリでなく、金曜日ですね。フジロックの最後を飾るのは、イタリアとかメキシコとか純粋にみんな知らない、でも格好いい人がやるべきやと思います。だから金曜日のトリができれば。土日は無理に決まっていますからね。渋さは本当のインディーズですからね。そういう日本のバンドが一度くらい立つっていうのもいいんじゃないかと。それができるのは渋さしかいないと思います。観る、聴く、という本当の意味でのパフォーマンスっていうのをやっているバンドだと思うんですよね。


    【フジロックと山田さん(仮名)】

     初めて行ったのは98年のときです。そのときは東京でええんちゃうかなーと思っていたんですが、99年はキャンプのできる感じでやるぞっていうのを掲示板かなんかで日高さんが書いていて、ヤッターと思って、レコードやCDを売っ払ってキャンプ用品を揃えたんです。それまでキャンプの知識はないんですよ。94年のウッドストックに行っていて、雨降ってひどい目に遭っているんですけど、そういうのはウンザリと思ったんです。でも、99年のフジロックが本格的に動き出して「やった!これからはアウトドアや!」って盛り上がって、Be-PALとかアウトドア雑誌のバックナンバーを過去2年分とか揃えて楽しかったですよ。

     今まで一番良かったのは98年のビョークですね。頭からケツまで泣きっぱなしでしたね。あと99年のレイジ・アゲンスト・ザ・マシーン。苗場に移ってからは、そこにおること自体が幸せでならないです。観てみたいのはボブ・ディランですね。

    フジロックに望むことは、しっかり続けていってもらいたい、ということですね。日本の音楽文化が成熟していく過程のかなり重要な要素を占めるフェスティバルだと思うんです。日高さんが辛くなっても続けていってほしいと思います。誰が出ようとアーティストが発表されなくてもチケットが売り切れてしまうぐらいの影響力を持つ、それが日本の音楽文化の成熟の度合いの一つだと思うんです。

     フジロックで自分は変わりましたね。受験勉強なんかでは、人に言われてこなしていく、知らず知らずのうちに人から言われたことをやり続けているだけで「俺は出来るとか、これだけやっている」とか文句言ったり、偉そうにしたり、自分で考えるということをしていなかったんじゃないかと思うんです。自分で考え、自分で行動するという大事なことを知ったと思います。ただ、キャンプを初めてやりたいっていう人たちには、もうちょっと優しく教えてあげるべきやと思う。


    【2004年の渋さ知らズのスタート】

     1月10日のO-EASTは渋さ知らズオーケストラの2004年の最初のコンサートですね。4月以降はクアトロツアーを予定しておって、2004年は日本でもツアーをキチっとやっていきたいと思っておりまして、1年を占ううえでも大変盛り上がるコンサートになると思います。根っからのファンの人、初めて見る人、ちょっとは知っている人、全て楽しめるものが渋さのライヴにはあると思うんです。

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