フジロック救護室のチーフ・ドクター千葉先生に診察を受ける!?

フジロックを支える裏方さん達は、総大将であるスマッシュ日高社長を筆頭に、とてもパワフルなオジサマが多い。そして皆さん、一様にステキだ。未見の方は、ぜひ過去のインタビューを見ていただきたい。「お父さんだったら」「だんなさんだったら」「上司だったら」「こんな大人になりたい」と、きっと妄想が膨らむはず。フジロック成立の陰にステキなオジサマあり、なのであ~る。
今回はその中の1人、救護室チーフ・ドクターの千葉先生にお話を伺った。'97年から毎年欠かすことなく救護室に駐在している千葉先生は、ドクターの立場から、フジロックとそれに参加するお客さんの変化を見てきている。時に熱く、時に冷静に語る千葉先生の口調は、まるでカウンセリングを受けているかのよう。何度も繰り返される「変化している」という言葉が印象に残った。
千葉先生のやさしさに触れ、取材陣一同、来た時よりも元気になって診察室を後にした。私達は多くの人に支えられ、フジロックを楽しんでいる。ステージのすぐ傍にいるにも関わらず、好きな音楽を聞くのを我慢して、耳栓をしながら診察してくださる先生や看護士さん達に感謝の気持ちを忘れずに。常備薬や絆創膏を持っていくのも忘れずに。
※看護士さん達のご協力で、『フジロックの危機管理』についてアドバイスをいただきました。こちらも後日掲載するので、ぜひ参考にしてください。ちなみに先生のご希望で写真にはモザイクをかけてあります。
--フジロックに関わるようになったきっかけを教えてください--
「一番最初は、'97年の時。『医師を探してる』って情報が入って、『じゃあ行ってみようかな』って。
'97年はまさに激戦で、もうすごかったよ。みんな毛布にくるまってさ。海外派遣の仕事でアフリカ行ったりするけど、もっとひどいくらい。初めてだったから準備も何もないし。スキー場のロッジがあったから、ベッドや毛布を用意できて助かった。でも暖房がないから、カップルは服脱がせて『抱き合ってろ』って。女の子同士もね。冗談抜きで野戦病院みたいだった」
--"嵐の天神山"は伝説ですからね--
「本当に大変だったよね、あの時。俺自身、まさかあんなことになるとは思ってなかったし、みんなもびっくりしちゃったよね。台風ですごく寒かったじゃない?あそこまで寒くなるとは誰も予想してなかったから、みんな軽装で来て震えてた。それに足下が泥地だったから、滑って大惨事になる危険性もあった。
結局何もなかったから良かったけど、もし死者が出てたら、その後のフジロックはなかったと思う。でもあれを教訓にして、主催者側もお客さんもどんどん変わっていったよね。なんかゴタゴタして大変だったけど、『せっかく来たのに1日で終わっちゃったな』って思ってたら、『また来年もやるからお願いします』って言われて。そこから、フジロックとの長い付き合いが始まったんだ」
--翌年は場所を東京に移して、台風から一転、暑さとの戦いでしたね--
「うんうん、熱中症!'98年のフジロックが終わった後、新聞に記事が出たんだ。『観客が熱中症で倒れる!』って。わざとだよね、あれ。あの頃って、まだこういう"野外フェスティバル"っていうものが知られてなくて、行政がやめてほしかったんだよ。だからわざと大袈裟に『何名倒れた!』ってやってさ。協力的じゃなかった。
お客さんもね、東京でみんなが来やすいのはいいんだけど、誰でも参加できるから、逆に酒飲んで暴れる人とかいたよ。だから、『わざわざ遠くへ』っていうのもいいのかもしれない。父島とか毋島って行ったことある?飛行機じゃ行けなくて船で25~26時間かかるから、マニアしか行かないんだ。行ってみるとマナーが良くて、ごみひとつ落ちてない。やっぱりそこまでして行く人達は、心構えが違うんだよね」
--父島&毋島・ロック・フェスティバル(笑)!!--
「いやいや。"フジロック"だから富士山でやるのが一番いいと思う。いつか戻れるといいね」
(April 27, 2004)
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