
Around the Fest.4--井上ジェイ氏--Part1
フジロックの基本的なアイディアがグラストンバリーフェスティバルの影響にあるのだけれど、まだまだ日本にいると遠い存在だったりする。1984年から毎年、ツアーを主催してグラストンバリーに行っている井上ジェイさんに話を伺った。イギリスと日本の違い、グラストンバリーとイギリス国内のフェスとの比較などなかなか興味深かった。もし、お金と時間が許せば、グラストンバリーにも行ってみてはどうでしょうか?
【ツアーを始めたころ】
ジェイさんが初めてグラストンバリーに行ったのは1984年。82年からグラストンバリーを体験していた音楽ジャーナリスト、花房浩一氏がジェイさんのいた旅行会社を訪ねたのがきっかけであった。
「ボクが前の会社にいた時に『ツアーをやりたいんで企画してくれ』って来たんですよ。ジャマイカでレゲエサンプスラッシュを観に行こう、というツアーをやっていたんで音楽に精通している旅行社だと思ったんでしょう」
当時のグラストンバリーフェスティバルはCND(Campaign for Nuclear Disarmament=核廃絶運動)という団体と一緒になって、フェスの収益金をその団体に寄付していた。
「普通の旅行社だったらなかなか難しいじゃないですか。反核運動のイベントにツアー組むなんて。ボクらは身軽だったし、十分共感できたんで引き受けたんですよ」
その時に出ていたのは、エルヴィス・コステロやスミスやイアン・デューリー、フェアポートコンベンション、ジョーン・バエズ(60年代の反戦フォークの人)などだった。
「毎年毎年ハンパじゃないすごい人が出るわけでしょ、毎年見ていると何年に誰が出たか覚えてられないんだよね(笑)」
ジェイさんはフェアポートコンベンションにえらく感激したそうだ。
「こんなアーティストも出るんだって。当時から(出演アーティストは)幅広いですからね。ツアーの始めたころの参加者はあがた森魚さんや、浜田省吾さんのところの会社の社長さんとか業界関係者が多かったです。90年代に入ってからですね。オアシスやブラーのブリットポップ系が出るようになって日本でも知られるようになったのは。それまではツアー組んでもせいぜい10人集まるのがやっとで」
「花房さんが『宝島』(当時はロックなどのサブカルチャーを取り上げる雑誌だった)とかに取材記事を一生懸命書いていたよ。あと堅い新聞や雑誌にも書いていたと思う」
日高さんがグラストンに行くようになったのは80年代半ば頃から。
「ボクらがバックステージの焚き火を囲みながら『こんなのを日本でも出来たらいいね』っていう話をしていた」
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reported by ORG-nob and photo by ORG-master (April, 2002)
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